もし、居酒屋の女性従業員が刀禅をならったら。

身投げ感覚

昨日は刀禅の稽古に行ってきました。

先輩方にはいろんな身分の方がいらっしゃいますが、昨日、二線球磨(刀禅の基本稽古のひとつ)を指導してくださったのは物理の先生でした。ところどころで動きを止めて物理学のニュアンスがそこはかとなく香る指導をいただき、いつもお世話になっている国語の先生とはまた違った表現で身体運用のコツを教えていただいたような気がします。

が、実を言うと言葉より圧の掛け方の操作で、なにか、もっと深い、「ぇえええっ?これでいいんですかぁああ?」というような精神的な揺り戻しがありました。ちょっとショックが大きすぎてまだぜんぜん全体像が見えないので、今日は自分の感じたポイントだけ書かせていただきますが、

なにしろ、

押すときは、腿の裏側とふくらはぎで引っぱりに堪えていたものが倒れかかるような。引く時は、背面全体で受けささえていた押される力に吹っ飛ばされるような、感触が自分の中で起きた時のほうが相手に対しての働きかけが重くなる。というんですから...もぉ、なにがなんだか?

先週あたりから、圧が通っていくときに人体のカタチに沿って線的に伝わっていくというよりは、ラグビーボール型の一種の包まれた空気の中を波動上に伝わってくるように感じはしていたのですが、その感覚と、昨日感じた感触を合わせて考えると...

押すにせよ、引くにせよ、緊張させる筋肉の部位と仕事量は今までより格段に少なくなるような気がします。ほんとにそんなことありえるんでしょうか?

練習中、自分のと先輩の分とがあわさった大きな弾力のある球体の中で、ときどき吹っ飛ばされたり、引き倒されたりして体勢が崩れるんですが、そのとき一種の無重力感と言うか浮遊感と言ってもいいような感触で身体が移動するのがむしろいいんだそうです。

「捨て身の攻撃」ってもしかしたらこういう感触を含んでるのかもしれないなぁ、とおもいつつ昨日は良くも悪くも、身投げ感覚を味わわせていただきました。

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星雲みたいなかんじ。

夕べは初めて刀禅の月曜稽古の見学をさせていただき五行拳の中の鑚拳を教わりました。

前半は軸足の踵を枢軸に方向を切り替えるときの骨盤のベアリング運動と、踵〜振り上げて頭を越して行く腕への勁を意識しやすいようにぐっと抑制した刀禅バージョン、後半は放擲するような大きな身振りのバージョンです。

どちらにせよ、きっちりと一線を維持した上での方向変換&腕の円環で、現実にどれだけできていたかはかなりギモンではありますが、それにしても内的には漠然とした球状のものが、手首と頭、手首と手首の擦過を通して銀河系宇宙のように周辺部に向かって、ソリッドになって行く感触があっておもしろかったです。

円板のように元々ソリッドなものが一線上を回転することで出る力と、球状のものが遠心力でつぶれることで周辺部に出てくる勢いでは力の集まり方が違う気がします。

また、合掌攻や合シン攻をやる時に、蛤刃をイメージするように言われてもいままでは正直あまりピンと来ませんでしたが、今にして思えばあれは1/2なり1/4のカットケーキから全体を想像しろと言われているようなもので、今日はじめてホールケーキを見せてもらった思いですね。今回、ホールを体験できましたので次はカットでも感触がイメージしやすくなると思います。

同じ動きでも、不思議と擦れ合うものがないとこういう力の集まる感じは起きませんから人の身体って繊細なものです。

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ら.ぷりまべーら

刀禅という私の通っている武術系のボディワークにはいくつかの歩行訓練法があるのですが、

その一つに2線球磨(クマ、と読む)というものがあります。これは骨盤をできるだけ起こしながら水平を保ち、左右のよじれを起こさないように2線上をたどっていく非常に抑制された外観を持つ歩行訓練で、一人でも対人でもやりますが対人の場合は相手が与えてくれる負荷を体内を通して足裏までめぐらせつつおこないます。

入門直後から教えていただきほぼ1年が経とうとしていますがいまだに納得のいくような歩き方ができないほど私にとってはきつい訓練です。

そのかわりと言ってはなんですが、訓練の直後普通に歩く時が意外に気持ちがよいのです。何と言うか、一歩ごとに自分の足裏から脚部に向かってワラビのようなものが萌え出るというか...普通歩く時は踏み出した足に自分の体重をのせて、それを支えに移動していきますが、この球磨をやったあとは自分の体重を伝える時に同時に反動というにはもっと繊細な力が吹き上がってくるかんじがします。おそらく端から見ると何ノロノロ歩いてんだ?としか見えないんじゃないかと思うんですけど...本人としては..そうですね、気分はボッティチェリの「プリマベーラ」 に描かれているフローラ(右から3番目の人物、彼女が一足進むたびに花が咲き乱れるという)とでも言ったところでしょうか?

ま、現実に畑を歩いて振り返ってみたところで、私の後ろにはぺんぺん草とかスズメの帷子くらいしか生えてないのがちょっと残念なとこです。

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刀には意志がある。ような気がする

昨日は刀禅の稽古に行って来たのですが、そこでどういう風の吹きまわしか先生が居合い用の刀を特別に触らせてくださいました。

持ってみるとたしかに木刀よりはいくらか重いのですが、なんだかとってもしっくり来ました。それに刀が自分で自分のいきたい路を知っているようなかんじもしました。ですから廻刀にせよ、上下動にせよ刀の通りたい路をなるべく邪魔せずにお力添えをさせていただく...というような心持ちでやりはじめたところ、森々と頭の中が静まってきて、周りの空気が濃くなって、水の中で動いているようでした。

見た目は同じ腕の運動でもダンベル振り回すのと大きく違うのはダンベルはこっちの意志がないと動きませんが、刀はそれ自身の中に動きを秘めていてほんの少しの働きかけで目覚め動きだすような感触がある点です。ですから、刀の意志を蹴散らさないように、静かに静かに添っていくだけでいいような気がしました。

なんだか大げさなようですが、静かに静かになっていくうちにエゴを手放していくような、大きな摂理の一部になっていくような開放感がありました。「瞑想ってわざわざ座ってやんなくてもできるんじゃね?」と感じた一日でした。

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条件付けの変更

武術の先生が、時々「拘束は良いものです」というようなことをおっしゃいます。

たしかにこう毎日毎日、大根を食べるはめになりますといやでも、ない知恵振り絞って創造的に料理するようになりますから「条件付けの変化」という意味でなら「拘束」も使えるなぁと、思います。

でも、「拘束」という概念が出て来ちゃうところが所詮、武術だよね...と思うところもあります。なぜなら美術は同じことを「拘束」とはいわないで「梯子はずし」というからです。

美術は単なる蝶よ花よの世界でも知的ゲームでもありません、既存の、当然と思われていることの梯子をはずして、人々を不安に陥れ、感覚を活性化させ、新しい未知の平原を垣間見させるのが美術です。刀禅(武術)が姿勢に制限を加えることで、眠っていた連関を目覚めさせ、次元の違う身体運用の世界を垣間見させるのとじつに良く似ています。

「拘束」も、「梯子はずし」も生み出すものはほぼ同じですが、由来は真逆ですね。言い方を変えれば由来は真逆でも効果は一緒。どちらか一方が強すぎると人のエネルギーを消耗させちゃうとこも似ています。そして、二つが拮抗している時...こんなに湧き立つようにおもしろいものはほかにそうそうありません。

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釣り合いの感覚。

今日は調宮の古道具市の日なのに..雨であります。畑にも行けないので昨日のつづきを書きます。

昨日、モビールでは小指の先ほどの小さなパーツも階層を増やすことで段ボール箱ほどのパーツと釣り合わせることも可能..と書きましたが、この重さの釣り合い感覚も練攻をやっていて時々感じる不思議な感触です。

指先が身体とおなじ重さを持つこともあり、また、腕全体を動かす時でも内観的には指先程度の重さのエネルギーで済んでしまうこともあります。...ありゃいったいなんなんでしょう?

よくわかりませんが、今のところ刀禅で感じる重さとは物質としての質量ではなく支点の遠さとテンションの強弱なのではないか?と感じています。例えば指先を動かすための支点を背中に置いたり、骨盤内に置いたり、踵に置いたりすることで重さの違いがでるんじゃないかなぁ..と。

といっても、物理で2をとったことのある人間の考えですから説得力はあまりありませんね。

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平行宇宙

「ぶじゅつ」と「びじゅつ」は一字しか違わない。

脱皮したてのザリガニみたいにぶよぶよしていた気持ちも落ちついて来たので、これを機にポートフォリオの整理をしました。やめると決めた時に捨て、ガンが見つかった時に捨て、これで3回目の整理ですが今回は非常に建設的(?)な整理になりました。

個展のたびに、ステイトメントを書いて来ましたが、その中にしばしば刀禅を通して体感できるビジョンを予感させるようなことを知らず知らずに書いています。

改めて見てみたときもっとも刀禅的、と思われる展示はモビールを使った展示です。

『モビールを作るにはパーツと糸と棒の、重さ、大きさ、高さ、長さ、太さ、遠さ、近さのバランスがからんできます。バランスがよくとれたモビールはよくまわります。バランスというと安定した、動かないものというイメージがありましたがよく動かすためのバランスもあるのだ、というのは発見でした。』

と、当時書いています。

稽古中、先生はしばしば「破綻がないからよろし」という表現を使われます。そうほめられている方々の身体が、体幹を走る大きな路を中心に、中、小の節々が自在に廻る様子はちっとも強そうに見えませんし、難しそうにも見えません。

破綻のない状態というのはいくつもの段階があるのでしょう。モビールの一番シンプルなものは要するに2つのパーツからなるシーソーですが、そこからはじまって階層を増やし、小指の先ほどの小さなパーツと段ボール箱ほどの大きなパーツをつりあわせることもこれまた可能です。

むかしの展示を振り返りながら、あのときここまで来ていたのに、どうしてこの「美」と「武」の違いを行き来できなかったのかな?と思います。当時の私にとってこの2つは平行宇宙と同じくらい遠かったのです。

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再会

なんだか、自分そっくりのものがやって来て、触れたとこからじわじわと入り込んできて、ぴったり重なったようなかんじです。中身の濃度が2倍になった気がします。 記憶喪失の人が過去を取り戻す時ってこんな感じかなぁ。

きっかけは寝る前に渡辺忠敏という武術の達人の様子をしるした文章を読んだせいだと思います。その方が動くと、あらゆる抵抗や分裂の消え去った純一な唯ひとつの勢が深く大きく流れてくるのだけが見えたのだそうです。読んでいて、美しいと思いました。

明け方夢で、日本酒がらみの仕事に転向する前に発表していた作品の数々がぽっ..ぽっ..と、思いだされているうちに最初に書いたようなことが起きました。いつもは寝起きはぼんやりしているのにいつになくぱっちりと目が覚めましたので、すぐ、長年封印していた過去のポートフォリオを引っ張りだしてページを繰ると、あっ!あっ!というまに当時の自分が捉えよう、表現しよう、と手を替え、品を変え、もがき、苦しんだのはこのためだったのだ...とストーンとまっすぐに入ってこられてしまいました。泣けました。

打ち込まれて、まだなんとなくひりひりしますけど、これからは過去を封印もしないけど美術制作に戻ることもないだろうと思います。作品、というかたちに仮託しなくても、生き物としての自分の身体を通して留まらない「勢」が発現していくなら、それだけで良いし、それ以上なにを望むってんだ?と思います。

ただ、いま、改めて思いだされるのは美術の恩師が「yuki,これだけは覚えていなさい、あなたの身体はあなたの意識より遥かに深く、賢いの。あなたの意識が見いだすはるか前に、身体は行くべき方向を画面に痕跡として残してくれる。意識がそれを見いだすのはいつでもずっと後なのよ。ずっとずっと後になって、痕跡の意味にあ〜〜なるほど、と思うのよ。だから身体から出てくる動きを意識で制御しようとしちゃダメ」と語った言葉です。

彼女の言葉はあの時の私を解放してくれました。でも、これは、過程にすぎないですね。感謝を捧げつつ、次の段階に進みたいと思います。

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指をそわせて

先日、名古屋で古武術活用講座 に参加させていただいた折に、指先一本で相手を崩していく技を体験させていただいたのですが、その場では鈍感な私は普通の崩しと指先での崩しの違いがあまり良く感じ取ることが出来ませんでした。

でも、気になることは気になっていますので、どういうことだったのかなぁと技の再現を試みているのですが現時点でわかっていることは、崩したいものの表面の角度と方向(軸線?)と自分の指先〜肘〜肩〜体軸ジワジワァと添わせていくとあまり抵抗もなく、つまりこっちの消費カロリーも少ない状態で思いを遂げられるようです、ね?(あってるのかな)

相手の体表が雪原だとして、こっちの指先はスキーのジャンパーで、なるべく着地の衝撃を推進力に転換するような角度で入る..というような工夫がないと、指先の崩しは成立しないような気がします。

でも、接点が少ないというのは相手に与える情報量が少ないのでとってもスマートですね。その点、時代劇で悪い殿様が「良いではないか...」などと言いながら腰元の肘をつかんだりするのは情報与えまくりで、「あんなやりかたじゃ抵抗されるにきまってるじゃんか、ヘタクソ!」と、思います。

殺陣の役者さんだけじゃなくて、殿様役の人も武術は習っとくべきですね。

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カエルかヒヨコか?

昨日は天気も穏やかだったのでジャガイモの植え付けを済ませてしまいました。

植え付けながら、刀禅に通いだして10か月経つなぁと思いました。なにやってるのかよくわからないままに日々を過ごしてまいりましたが、ここ最近、モノとしての身体の柔軟性ではなく、仕組みとしての動きが柔らかくなってきたような気はします。

あとは...なんていうんでしょうか、中学くらいの時に顕微鏡で見たかえるの受精卵が卵割していく様子と同じようなことが自分の身体で起きている気もします。

今までの身体が単細胞だったとすると、今は8つくらいまで卵割がすすんでるんじゃないかしらん?いや,端から見たらまだ4つくらいかな....。とにかく、外見の大きさは変わらなくても中身のパーツが増えて来たおかげで組み合わせのバリエーションが飛躍的に増えて来ている感じはします。アニメでもコマ割りが増えれば動きが滑らかになりますから身体も分割がすすめばより滑らかに動くようになるんじゃないでしょうか?

このままどんどん分割がすすんでいくとある日、ポコッと殻を割って新しい自分が生まれちゃうのかもしれないなぁ....なぁんてね。

オタマジャクシになるのかヒヨコになるのか分かんないところがまぁ不安といえば不安なところです。

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